うつろいゆくもの、されども
人間が人類を辞めたのが五か月前の事だから、地球全ての海が砂漠になってから一年が経とうとしているらしい。
もう一年なのかまだ一年なのかは分からないけれど、私たちが生きている事だけは、この良く分からなくなった世界で、ただ一つとも言える明確な光を帯びた真実なのだった。
『うつろいゆくもの、されども』
水平に伸びる砂漠線の向こうで、小さな陽炎が生まれては消えていく。ぬるりのろりとさざめき立つ半透明の靄は、寄せては返す波の姿に良く似ていた。広がる白銀の砂の粒は、やはり太陽の光を受けて艶やかに輝く水面に、とても良く似ていた。
海が砂になって、確かに世界は変わってしまった。不変である筈の物が変化してしまったという事が聡明な人間達には耐えられなかったらしく、内の二割は発狂した。また五割は環境の変化に耐えられず死滅した。なんとも脆弱な生命、どうして今まで生き抜けてきたのか、私にはわからない。私含め、残りの三割は除くとして。
私は双眼鏡を持った腕を下ろすと、腰のポシェットに滑らせた。薄い布で出来たフードを脱ぐと、耳の後ろに溜まっていた熱気が空へと溶け込む。フードと地続きになった背中のマントも脱ぎたかったけれど、私の大事なアイデンティティ――ガラスの糸を織り込んだような、薄い透明の翅――が傷ついてしまうと、ママンはとっても怒る。ちょっとぐらい、平気なのに。
「調子はどうだい、ヒメシロ」
「ウスバ!」
空の上から声が聞こえたと思ったら、それはウスバだった。振る度に風の音がする硬い翼をひょうひょうとはためかせて、彼は私の傍の木の枯れ枝に降り立った。暫く見ない内に、また少し逞しくなったように思う。
「久しぶり。旅は楽しかった?」
「んー、あんまりだねェ。どこまで行っても海は砂だしィ。この辺りをグルグル百週した方がまだ飽きずに済んだかもねェ」
「そっかあ」
彼の鼻に付く声を聴いていると、なんだか懐かしくなってしまう。ウスバが旅に出たのは三か月ぐらい前の事なのに、もう私の中では百年ぐらい経ったんじゃないかと思ってしまう程に。
「海の観察はどう? ちょっとは進展あったァ?」
「全然。波は毎日変わるけど、水面は水面」
私達は、砂から立ち上る陽炎を“波”と、砂漠の地面を“水面”と呼んでいる。学術的な呼称だとか、私達の中でそう伝わっているとか、そういうのじゃない。私が単にそう呼びたいだけだった。こだわり、と言うにはそうなのだけれど、それは正確じゃない。心の何処かで、砂漠があの美しかった海に戻る事を望んでいるのだろう、あの海を忘れたくないのだろう――と、そう思っているんじゃないだろうか。自分の心の事なのに、未だに良く分からない。
「ヒメシロ?」
「あ、ううん。ごめん」
ウスバの、研がれた剃刀のように鋭い瞳が、私を覗き込んでいた。鋭い、と言ってもそれは私を傷付けるようなものではなく、心を全て見透かすような、あらゆることに達観した賢者の眼差し。陽気な彼の事がたまに怖くなるのは、その為だった。
「そっちはどうなの。旅の途中、何か見た?」
「んー」
彼は少し思案するようなそぶりを見せた。玉鋼を切り崩したように鋭くぎらぎらと輝く彼の鉄羽が、太陽に反射して眩しい。
「あ、人間。人間見たよォ」
「生きてた?」
「ん、死んでた」
でしょうね、と私は口の中で呟いた。砂漠の気温に適応するよう独特の“進化”を遂げた私達現人類と違って、旧人類は非常に弱い。すぐ死んでしまう癖に一度の出産量も子供の数も少ないものだから、そりゃあ絶滅もする。裏を返せば、彼らが栄えていた頃――つまり、海が未だ存在していた頃――は、途方もなく生きやすい世界だった訳だ。なんだかんだ言って、それは少し、羨ましくもある
「ねー、まだ観察するゥ?」
「今日はもうやめる。飽きた」
「じゃあ一緒に帰ろうかァ。オイラん背中、乗る?」
「嫌よ。あんたの羽で服が破けちゃうし、それに」
私はマントを取ると、背中に備わった薄い翅をちらちらと動かした。
「もう、私だって飛べるのよ」
「そっかァ」
ウスバはにこりと微笑んだ。それは鋭い瞳が急に蕩けた甘さを帯びる瞬間。ほんの少し逞しくなって、ちょっとだけ大人びた彼だけれど、本質的なところは何も変わっていなかった。それは少しだけ安心でもあったし、少しだけつまらなくもある。
「ちょっと大きくなった?」
「そう?」
「自覚ないの?」
「んー。自分の事って、良く分かんないからなァ。それを言うなら、ヒメもちょっと変わったかもねェ」
「そうかなあ」
私は自分の身体を眺めてみた。日に日に大きくなる背中の翅以外、特に変わったところはない。
「ほんとに?」
「うん。変わった変わったァ」
スポンジ生地が崩れるように柔らかく微笑む彼は、結局私のどこが変化したのか教えてはくれなかった。
ウスバも私も、かつては人間だった。直立二足歩行、卓越した思考能力と脆弱な身体能力を持つ、この星の王者と呼ばれた種族。しかし、今思うにそれは、蝶に変身する前の蛹のような、仮初の姿だったのかもしれない。
唐突に海が砂漠になって、人々が惑い絶望したその日、私を含むいくらかの人間達は唐突に姿を変えた。ある人は鳥のような翼を得、またある人は鋭利な爪を得、またある人は翅を得た。生物学上それは“変態”と呼ばれる行為なのだろうけど、私はこれを“進化”だと考えている。
「ヒメシロ、ちゃんと飛べるのォ?」
「バカにしないで」
背中の肩甲骨のあたりにぐっと力を込めると、頭の先から足の指先までが水に包まれたように軽くなっていく。足元に絡みつく重力の糸が、身体が持ち上げられるにつれて次第に解けていくのがわかる。上も下も分からないようなこの浮遊感は、人間だった時には決して味わえなかった感覚の一つだ。
人の身体に翅が備わっただけの私の身体は、安定した飛行姿勢を取る事がとても難しい。ウスバのように完全に人間から脱して、飛行に特化した鳥のような身体になってしまえば楽なのだろうけど、元々発達の遅かった私には今のところ叶わぬ願いなのだった。
「おォ、上手上手ゥ」
「ちゃんと練習したからね」
「にゃはは。ヒメちゃんはほんとーにマジメだねェ」
ぱちぱちと手を叩くように銀翼をはためかせる姿に、彼が人間だった時の面影はない。それに、彼が私の幼馴染だった頃は、もう少し落ち着いていたような記憶がある。
姿の変貌と共に、人格すらも変わってしまうのだろうか。まるで、人間だったことが全て無意味だとでも言われているようだった。
足元を埋め尽くしていた砂漠の金が、やがて緑の息づく大地に変わり始める。海原が終わり、陸が訪れたことになる。意識していないと忘れてしまいそうだが、この砂漠はかつて海だったのだ。あの日に姿が変わったのは海だけで、この星全てが砂に覆われた訳ではない。
「ウスバ、そろそろ降りていい?」
「……ン! いいよォ」
一度気流に乗れば後は滑空姿勢に移ればいい鳥の翼と違って、私が背負う虫の翅は常に羽ばたかせなければならない。私の肉体的な疲労もそうだが、翅に掛かる負担もウスバのそれとは段違いだ。ようやく翅の形になったばかりなのだから、無理はさせたくない。
放たれた矢じりのように斜滑空して、ウスバはすとんと緑を踏みしめた。それに少し遅れるように、私の両足が地面をとらえる。薄い靴底に、冷たい土の感触が広がった。
「この身体は色々便利だけどォ、たまにヒメが羨ましくなることがあるんだよねェ」
「どうして?」
「ほら、オイラって猛禽の足じゃん。土を踏んだりとか、もう出来ないんだろうなァって」
彼は昔を懐かしむように目を細めていた。私は下を向いて、まだ健在の自分の足を見つめる。長年付き添ってきたこいつとも、やがて袂を分かつ日が来るのだ――なんて、分かってはいるのだけれど実感が湧かない。影も形も無くなってしまうのか、それとも形を変えるだけなのか、何もかもが分からなさすぎて、不安にはなれなかった。
「ま、人間だった時は空飛べなかった訳だしィ。総取りしようなんておこがましいよねェ」
ウスバはくつくつと笑った。人間のように歩けない事を、特に悲しんでいるような様子はない。
「ねえウスバ」
「なんだい」
「人間じゃなくなった時って、どんな気持ちだった?」
ウスバは跳ねる足を止めて、私の方へ振り向いた。きょろりと円らに光る金色の瞳が、思いのほか青白い私の顔をはっきり映す。
「どんな気持ち、って? 嬉しいとか悲しいとか、そういう事ォ?」
「ううん。もっとこう、深い感じの」
「……んー、何も思わなかったねェ、多分。あ、変わったんだーって感じィ?」
「そんなに軽いの?」
「んにゃ。流石に今のはちょーっと語弊があるけどさ、ヒメが考えてるような感情は抱かなかったなァ。意外とさ、あっけないもんだったからねェ。それに、もう大分人間だった頃のこと、忘れてきてるしィ」
「そっかあ」
私は足元の石ころを蹴った。「やっぱ、そんなもんだよね」
「そうともさ。だから、あんまし悩まない方がいいと思うなァ。姿が変わっても、ヒメはヒメさァ」
「……ん、ありがと」
肉体が変貌しようとも、中にある魂までが変わる訳じゃない。ウスバのように少しだけ性格は変わってしまうかもしれないけど、だからといって私が私でなくなることはない。意識があり、思考があり、自我がある限り、私は私でしかない。
分かっている。
分かっている、けど。
「……やっぱ怖いィ?」
私は何も言わなかった。似合わない神妙さをその顔に湛えて、ウスバがこちらを見ている。私は何かを言わなければならない。黙ったままでは、ウスバは困ってしまう。なのに、喉の奥で鋭くとがった私の感情は、頑なに引っかかったまま出てこようとしないのだ。「ねえ、ヒメ。オイラがこの姿になった時、どう思った?」
「……どう、って」
「怖かったァ? 一緒に居たくないって思ったァ?」
強い風が吹いた。遠くの方で、“海”の砂が巻き上げられるのが見えた。今にも溶けてしまいそうに透き通った青い空に、金色の砂塵がはらはらと舞い落ちる。断崖に叩きつけられた水飛沫のように、それはすぐに見えなくなった。
ウスバの銀色が、太陽に当てられてつやつやと輝いていた。研ぎ澄まされたナイフのような翼と、矢じりの先端を削って丸くしたような頭と、猛禽の荘厳さを匂わせる黒壇の尖爪。人であった時のぽわっとした彼など、面影もない。
だけど。
だけど、怖くはなかった。その身体は確かに人を傷付けるだけの鋭さを持っていたけれど、だからといって、別段強い感情を抱くことは無かった。確かに、最初は少し驚いたけれど、でもそれだけだった。本質的に何も変わっていない事を、私は始めから知っていた。そしてそれは、私自身にも言えること。
「……そんなこと、思う訳ない」
「そうだねェ。じゃなきゃ、オイラと一緒に居る筈ないもんねェ」
少し照れくさそうに鉄の頬を赤熱させると、ウスバは弾かれるように翼を瞬かせた。太陽を背にし、上空へと遠ざかっていく彼と、はたりと目が合う。
「ヒメ。向こうの方、綺麗だよォ」
にっと笑み、そして彼の視線が進む先は、私達が今しがた歩いてきた方角だった。
「そっち、海じゃ」
「いいから。ほら、おいでェ」
手を差し伸べるように、彼はもう一度羽ばたいてみせた。
もう彼には無い筈の人間の手が、陽炎のように朧気に視界に浮かんだ。その手を握るように、私も翅を強く振るう。
「見てよ、ヒメシロ。陽炎が綺麗だよォ」
もうもうと煙のように立ち上る、それでも実体のない生き物が、一面の砂の海でうごうごと踊っていた。見ようによっては、透明を湛える澄んだ水の流れのようにも見える。広く深く溜まった清水の底に、きらきらと光る砂金の粒が溜まっているようにも。
「ヒメ。オイラ、思うんだ。多分、変わらないものなんてないんだよねェ」
「……どういうこと?」
「んにゃ。海ってさ、ずっとあるものだと思ってたじゃん、オイラ達。でも、実際は海は砂漠になっちゃったわけだ。オイラだってあの日まではずっと人間だったし、これからもそうだと思ってた。だけど、実際はほら、こんな鉄の身体に大変身しちゃった。しちゃったけど、ヒメシロは受け入れてくれた訳だ」
私は頷いた。遠くの方でまた一つ、砂塵の雨が巻き上がる。
「オイラねェ、ヒメシロが好きだよォ。多分どんな姿になったって、その気持ちは変わらない。だから、ええっとォ……なんていうか、別に、変わったっていいんじゃないかなァ。さっきも言ったけどヒメはヒメだし、それ以上にはなれないし、どんな風になっても受け入れる自信はあるしィ」
「……ほんとに?」
「勿論さァ。こっちとしては、もう少し可愛らしい性格になって欲しい――ってのはあるけどォ?」
剽軽を気取って片目を瞑ってみせるその仕草は、彼なりの照れ隠しだったのだろう。
両手を握ると肉の感触がする。瞳を瞑ると瞼が落ちる。砂埃と汗でべたついた髪は、風に巻き上げられてゆるりと戦ぐ。
そのどれかが、例え全てが無くなるとして、私が怖がることはもうないだろう。海も人もうつろいゆくものなのだと、されども本質は一切変わらないのだと、私はようやく理解することが出来たのだ。
「ねえ、ウスバ」
「なあにィ?」
「私がどんな姿に進化したとしても、“よかったね”って言って。そうしたら、私はたぶん――前に進めると思うから」
琥珀色に霞む空の向こうで、いっそう強く陽の炎が瞬いていた。
「……ヒメ、やっぱり変わったねェ。さっきも思ったけど、ちょっと強くなった」
「そうかなあ」
足元に広がる透明の靄は、澄んだ海の水のようにせせらいでいる。その底で、金色の砂がきらりと舞った。羽根で撫でたように盛り上がる砂紋の群れは、跳ね上がった波が凍りついたようにも見える。
ここは海だ。例え水が砂に変わろうとも、深く沈み込んだ蒼が弾けるような黄土色に変わったとしても、ここはずっと海のままだ。海であることを誰かが覚えている限り、ここはずっと海のままでいられるのだろう。
「帰ろう、ウスバ」
「だねェ。夜になると冷えるしねェ」
変わらないと思っていた海が砂漠になって、人間であったはずの私達は姿を変えつつある。あらゆる物がうつろいゆく中で、恐れて立ち止っている暇など存在しない。そんなもの、存在する必要もない。うつろいゆくことを、受け入れてくれる人さえいればいい。
私はもうじき、人でなくなる。進化を遂げて、ウスバのように人の姿を無くしてしまう。されども。
どんな姿になれるのか、今は少し楽しみだ。
- 曽我氏
- 2014/09/07 (Sun) 23:42:18